高 天 彦 神 社
・
本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。
神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、
本社の御祭神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)
が嫁がれ、その間にお生まれになったニニギノミコトが
高天原からこの国土に降臨されます。
その天孫降臨にあたって、国つ神の征伐に赴く武士の派遣から、
天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話申し上げたのであります。
日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた「高天原」も、
実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。
御本社の背後には美しい円錐状の御神体山がそびえていますが、
社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。
古杉のそびえる参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、
そこがかつての葛城族の住地であります。彼らは背後にひろがる広大な
台地を、神々のいますところと信じて「高天原」と呼び、
その名称が神話として伝えられてきたのです。
葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。
そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。
神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。
日本書記に、腋上(わきがみ)のホホマの丘に登りまして、
国のかたちをめぐらしおせりてのたまわく、あなにえや、くにみえつ。
うちゆふのマサキクニといえども、なおアキツのとなめせる如くあるか。
これによりて始めてアキツシマのナあり。
とある腋上は御所市の平野の古称で今でも伝わり、ホホマ丘も丘裾に本馬
(ほんま)の地名を残しています。国号のアキツシマもこの地に最初の
王朝が築かれたことに由来します。葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、
九代で滅びますが、竹内宿祢によって復興し大臣は葛城一族が
独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されました。
これら葛城一族の祖神を奉斎することから、清和天皇の貞観元
(859)年に神位従二位に叙せられ、延喜の制では最高の名神大社となって、
月次・相嘗・新嘗の祭りには官幣にあずかってきた古社であります。
神殿の移り変わり。
旧
新
・
・
・
・
・
・
・
・
高天の台地には、巨木の杉並木が続く参道の奥に
円錐状の美しい神体山があり、その裾に葛城王朝の最高神、
高皇産霊尊を祭る神社がある。
(鳥越健太郎著・神々の道から引用)
・
高天彦神社住所 御所市北窪158
MAP
・
・
・
標識の拡大。
・
・
整備されたコンクリートの道。
・
・
道は緩やかに登り標識が右に案内する。
・
・
右に折れて坂を上がりすぐに左に折れる。
・
・
階段状を登ると
・
・
途中、左側に高天彦神社の近く(南側)にあったであろうと言われてる
高天寺の墓地・南無六道権化地蔵尊が祭られてる。
・
・
・
先に進む。足元はいい。
・
・
視界が開けて高天彦神社の神体山・白雲岳(横峯・王山)985M
と杉並木の参道が見える。
・
・
少し歩くと右側に
蜘蛛窟
が小高い丘にある。
右奥にその案内板。
・
・
あぜ道を案内に沿って進む。
少し上り詰めると。
・
・
Uターンしてあぜ道に帰り、参道に進む。
鶯宿梅
、
原木が枯れてしまって今はこの感じ。
・
・
以前の鶯宿梅。咲いてませんが・・・
・
・
この前駐車場。そこに寛篋印塔が。
・
・
ここで杉並木の参道に。
・
・
その正面に大鳥居。
・
・
鳥居前に、神霊と彫られた石柱。
・
・
幸せを呼ぶ福蛙。
・
・
・
・
狛犬
・
・
・
本殿
・
・
境内社群
・
稲荷神社・市杵島姫神社・御霊神社
・
・
八幡神社
・
・
春日神社
・
・
菅原神社
・
・
三十八神社
・
・
護国神社
・
・
磐座
・
・
・
・
鳥居の外の以前の金剛山への登山道・郵便道に
水車
・
・
その上に行くと桜の広場。
その植樹祭の風景
・
・
・
令和2年3月のさくらの広場風景。
・
・
・
近くに樹齢450年(推定)の彼岸桜
天孫桜があります。
植林に囲まれていて成長が害されてたのを地元の有志の
お方が植林を伐採して天孫桜復活に向けて努力なさってます。
京都の庭師、
第16代佐野藤右衛門
様のご指導の下
さくらの周囲を足踏まずに広く取り空を広く開け日当たりをよくして
3~4年後には若木も育ち桜も咲くようになりました。
もうしばらくで皆様方にもお目にかかれると思います。
2020年3月記
・
・
・
終了。